先週のことですが、地元のショッピングセンターで2人の警備員に呼び止められました。私の裸足の足を見下ろして彼らは言いました。「悪いんだが、裸足のままここに入れるわけにはいかないんだ。」
そうなんです!この消費主義の神殿では、そのピカピカで清潔極まりない床に素足の肌で触れてはならないのです。
私は、おかしくって、裸足で歩くことがどんなにいいことか教えてあげようかと思いました。誰かがつま先をぶつけるか何かしてショッピングセンターを訴えようとしたとか、きっとそんな理由でこんなルールが出来たのでしょうから、その馬鹿馬鹿しさを教えてあげようかとも思いました。でも、そこで議論しても無駄だろうと気づいてしまいました(彼らのはいている、おそらくはスチール入りの安全靴を見ながら)。だから、満面の笑みを浮かべ、クスクス笑いを隠しきれないままを立ち去りました。別の入り口を探しに(もちろん警備員のいない)。その間ずっと考えていたんです。人間という生き物がどれほど自然から遠ざかってしまったのかを。そして、それ故に私たちがどれほど傷ついているかを。
私は裸足になるのが大好きです。世界とのつながりを感じられるからです。足の指をくねらせたり、曲げたりでき、足下の大地を軽くつかんだ時にはその感触や温度を感じることができる。この素晴らしい自由さを味わうのです。砂浜を裸足で走るのは格別です。やわらかな砂が、キュッと音を立てて踏み固められ、水際では冷たくシャキッとした海のしぶきがつま先に触れます。時には、感覚をもっと研ぎすますために目を閉じて走ることもあります。足下の感覚は、私を満たしてくれる朝日のぬくもりと重なっていきます。なんという至福の時でしょう!
移動生活を営むペナン族の人々と共にボルネオの森を歩いた時の、彼らの足の美しさを思い出します。彼らの足の指は、滑りやすい山の傾斜では、大地をつかむことができるように大きく広げられ、彼らの足の裏は、ジャングルのほとんどの植物のトゲが刺さらないほどに硬く、その一方で、冷たく柔らかな蛇の体を足下に感じた瞬間に「飛び退け」というメッセージを発することができるほど敏感でした。彼らは、太古の森を音もなく歩を進め、大地に下ろすその一歩一歩は、瞑想をもって敬意を示すかのように優しげでした。
私たちが「買うべき」靴には、特に健康のため、というものがありますが、そういう宣伝を見ると思わず笑ってしまうことがあります。なにしろそういう靴はとんでもなく高価で、そのくせ長期的には悪影響の方が大きいことが分かっているのですから。私の母が若かったころはもっとひどく、細く尖ったハイヒールという拷問具にデリケートなつま先を詰め込んでいたせいで、彼女のその後の人生には痛ましい後遺症が残されました。ですが、世の中は少しずつ変わっています。「裸足主義」のメリットを広めようという団体が世界中にあります(例えば、http://www.barefooters.org/ )。私の友人でもあるテリー双葉さんは京都で「はだしで歩こう会」( https://www.facebook.com/groups/203256943206739/?ref=ts&fref=ts
)という活動をしていますから、ナマケモノ倶楽部を愛する人の中にも裸足族はいます。
【翻訳】宇野真介
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