2012-05-15

5/4和訳:「貧しさ」について考える


今朝のことです。二粒の涙が、静かにパチャの頬をつたいました。

パチャは彼女の願望を私に訴えていました。「ママは私が買いたいものをいつもダメって言う。けど、友だちのママはいいって言ってるよ」当然のことながら、パチャの友人たちはたくさんの新しいモノに囲まれているのだそう。

彼女は、クラスメートと同じような流行りの服を着たいだけ、そうすることで一緒に遊んでもらえると言います。もちろん、私は、その流行りの新しい服がどこからきて(中国)、どうやって作られたのか(児童労働)をパチャに話しはじめました。
すると彼女は「どうしていつもそういう話ばかりするの?」と取り乱したのです。

私はその話をいったんやめて、パチャが私の子ども時代よりどんなにたくさんのいい服を持っているか(ぜんぶお古だけど)、学校の制服さえ母の手作りだった私は、他の子と同じ格好などありえなかったことを話しました。

パチャは私の言葉に聞き入っています。私は、私たち家族は、お金で手に入れるモノよりも、人や自然との体験を大切にしていること、そして、その価値観は周りとは違うかもしれない、ということを伝えました。

パチャは「ママの言うことはぜんぶ分かっている。それでも、「新しい」ものを買ってみたい」と言うので、「次に町に出かけた時、あなたが大道芸で稼いたお金で、欲しい服を買ったらいいわ」と答えました。

数分後、パチャは取り乱したことを謝罪しました。私は彼女をぎゅっと抱きしめて、こう言いました。「そう考えるのはおかしいことではないのよ。私たちが、オーストラリアの「一般的な」家庭とは違った価値観なだけ」

この事件?をきっかけに、私は最近あった他のできごとを思い出しました。



先日、前の学校で一緒だった男の子が、他の子たちがいる前で、パチャに「お前ん家は貧乏だ」と言いました。パチャは毅然とした態度でこう切り返しました。「そうね。だったらどうして、私たち家族は今年、世界旅行に行けるのかしら?」
それでもやっぱり、パチャには彼の罵りがこたえたようです。

もしかしたら、その男の子が「貧乏」と言ったのは、他の悪口(デブ、みっともない、クズなど)が効かなかった時に使う言葉なのかもしれません。

実際、世間はいとも簡単に、私たちに「貧乏」というレッテルを貼りますし、私たちの収入がオーストラリアの一般家庭より少ないのも事実です。

けれども、私たちには多くのものがあります。それは快適な家であり、満足するだけの食べ物、そして、人々にとって最も重要な健康や幸福、目的、快活さや自由に恵まれています。それらはきっと、世界に暮らす大多数の人たちが夢に描く以上のものでしょう。



世界規模での消費社会は、ますます強力に私たちに迫ってきます。ジャングルの奥深くでさえ、衛星テレビから絶え間なく「もっと大きく、より速く、たくさん」をよしとする内容が流れています。そこでは、富を得ることによる「成功」のみが重要視されています。まさにこの考えによって、私たちは自然や人とのつながりから切り離されているのです。

ローカリゼーション運動のパイオニアであるヘレナ・ノーバーグ=ホッジさんは、最近のラジオインタビューでこう指摘しました。「あなたが新しいステータスを手に入れるほど、周りの人たちに妬みや喪失感を与えるのです」

私は、陸上、ダンス、歌、サーフィンなど、子どもたちがやりたがることはなんでも、最大限力を発揮できるよう応援しています。身体的な能力は、私たちの物質的制約を補ってくれると信じているからです。

彼らが他の子よりも上手にできた時、他人と比較している自分に罪悪感も抱きながらも、「母として自分は正しいことをやっているのだ」と、私はそっと胸をなでおろすのです。

いのちのために。
アンニャ

追伸:このテーマに関して、Facebook上でたくさんの反響がありました。英語ですが、興味がある方は、https://www.facebook.com/anja.light/posts/2820775088124を見て下さい。
(写真 パチャとヤニは、地域のヒップホップコンテストで新しいスキルを習得しました!)

【翻訳:小山邦子】

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