「恐怖」、「襲撃」、「待ち伏せ」、などなど、地元テレビ局ニュースでサメが画面に跳ねる時、いつもこの手の言葉が使われます。先日私が母と一緒にテレビを見ていた時、私はこう口に出さざるを得ませんでした。「本当にばかげてる、みんなを脅かすようなあんな言葉を使うべきじゃない。サメはただそこにいるだけ、だって海が住み処なんだから。人を餌にすることなんかないよ。」母は驚いて言いました。「そんなこと言ったって、あんな恐ろしいものがうようよいる所にどうして子どもたちをサーフィンに行かせることができるの?」
(サメの襲撃の事実:サメは世界中で年間12人もの“多数の”人間を殺しています。一方、人間は1時間に1万匹のサメを殺しているのです。サメの事実を知ることは大切です。)
母の言葉は、メディアからの偏見に満ちたショッキングなニュースに対する素朴かつ典型的な反応なのです。事実に基づくきちんとした説明をしていくのは時間も忍耐力も必要です。数日前にボディボーディング中の人がサメに襲われ瀕死の重傷を負い病院に運ばれたという事故が我が家から2,3時間のところでおきました。メディアは厳重警戒を呼びかけます。人々の心に恐怖と妄想を植え付け、途方もないものとして危険をあおりたてるのです。それは、人間の行いによって生ずる死や苦痛から目をそらそうとする戦略なのです。環境破壊や悪い生活習慣から起こる伝染病、生まれながらの不平等に起因する飢餓などと対比させれば一目瞭然でしょう。
そういう中パチャとヤニは近くのサーフィン大会に参加しました。少し神経質になったかもしれませんが、彼らの愛してやまない海に飛び込むことにちゅうちょはしませんでした。ヘリコプターとジェットスキーで付近を探索しサメを追い払っている間、大会の主催者は競技を中断し参加者はテレビ局やラジオ局からインタビューを受け、どうすべきかを議論していました。
サメを殺すべきだと主張する年上の少年と議論しているパチャの態度を私は非常に誇らしく思いました。パチャは言い返しました。「でも、サメ被害よりもっとたくさんの人がココナツの実が落ちて当たって死んでるよね。私たちは彼らの領域に入ってるんだから、サーファーとして海に向かうときはそういうリスクを受けいれるべきじゃないのかしら。人間もサメを尊重すべきだと思う。」彼女の発言は濁りのない情熱から出ており、近くで取り囲んでいた人達は最後に彼女が議論に勝つのを見ていました。
事実、サメは人の味を好むわけではありません。しかし、大型漁業による乱獲などで魚の数が減っている中、空腹状態の時にアザラシと間違えて人を襲うことはあります。また色鮮やかでキラキラ光るアクセサリーを餌と見間違えてかじることもあり得ます。これらを結果的に数字で表わせば、年間12人がサメの犠牲になっていますが、その一方で人間は1億匹のサメを殺しているのです。
広い視点でとらえると、自然界への恐怖が増大するたびに生き物を支配し手なずけようと努力する人間の矛盾が現れてくるのです。恐怖は人々を生きている世界から遠ざけ、従順な消費者になるように仕向けます。この奇跡の星である地球につながり信頼する感覚は衰え、すべてを“物”に置き換えてしまうのです。
私も母としてもちろん子供の心配はしますし、私の母が孫たちを気遣うのは本当に当たり前のことであると思います。しかし事実として、サーフィンで海に飛び込むことより、サーフィンの大会に車で行くことのリスクの方が大きいということは確かなのです。
【翻訳:中久保慎一】
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