2010-07-27

7/26:和訳

あなたは馬を愛するのと同じように車を愛することはできないでしょう。 馬は、私たちから人間らしい感情を引き出してくれます。それは機械には決してできないことです。このように機械は、私たち人間の中にあるものを引き出しもしますが、また疎かにもするのです。そして、私たちに本来備わっている感情を「用なし」にすることで、私たちの暮らしを非人間的で機械的なものにしていくのです。
アルバート・アインシュタイン



今朝は、いつものように、パチャとヤニを馬(オリー)の背中に乗せて、スクールバスのバス停へ連れて行きました。先週末、パチャとヤニとオリーと私は、森へ4時間散歩に出かけてきました。お弁当を持って、途中、オリーがみずみずしい芝生をむしゃむしゃ食べるために立ち止まったり、自転車とオリーの背中交互に乗ったり、遊んだり、歌ったり、呼吸したり、ふれあったり、つながりあったり・・・。毎日私は自分をつねって、これが夢でないことを確かめるほどです。なんて私たちは恵まれているのでしょう!楽園のような大自然の中で、簡素な家に暮らし、地域と関わる中で自分の意見を述べ、よりよい社会への働きかけをする自由があるのです。

自由は、時には「気ままさ」ともいえます。「馬を飼うなんて、アンニャはすごい金持ちに違いない」と思う人たちのことが、私には不思議でたまりません。そうね、確かに私たちの生活は「豊か」です。でもそれは金銭的なものではありません(もちろん、誰の収入と比べるかによりますが)。

いずれにせよ、私たちの馬、オリーは、家族の一員として、自分の担当をしっかり「稼いで」いることは確かです。たとえば、オリーは草をはびこらせません。もしオリーがいなければ、草刈機を買う(3000ドルにプラスして維持費とガソリン代も継続的に必要)か、誰かを雇って毎月草を刈ってもらわなければならないでしょう。
それから、オリーは肥料もつくってくれます。もし庭の手入れに馬糞を買ったら1袋3ドルはかかるでしょう。オリーなら1日で2袋は満杯にします(オリーはたくさん糞をするのです)。さらに、オリーはセラピストでもあります。辛抱強くて優しく、いつもここにいてくれます。それに暖かく穏やかで力があり、どうやって他人を敬い、一緒に過ごしたらよいかを教えてくれます。オリーは人間以外の視点で世界を見ることを教えてくれるのです。

オーストラリアでは連邦の総選挙がもうすぐです。私にとっては全てが茶番にしか見えません。中心となっている2つの政党は、どちらも大して変わらず、欲望で頭がいっぱいの企業に支配されているのですから。
選挙の最大の争点の一つは、いわゆる「ボート難民」問題です。彼らは、戦闘状態の国から、今にも沈みそうなボートで自らの命を危険にさらしながら、オーストラリアに避難場所を求めて逃げてきます。不法移民のほとんどは飛行機でオーストラリアに入国しているのに、二大政党のどちらもが、ボートピープルをオーストラリアに寄せつけないための政策で大騒ぎしているのです。なんて冷酷で非情なのでしょう。特に我が国は、アフガニスタンの様な戦争で引き裂かれた国に軍隊を送りこんで、その国の混乱を助長しているというのに・・・。


以下の文章は、選挙について私が新聞に投書したものです。ある人が「キリスト教を熱心に信仰する人が私たちの指導者として投票されるべきだ」と語ったことへの返信として書きました。

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拝啓
私はウェンディ・ボニフェイス氏にただひとつ、この質問を尋ねてみたいのです。
「イエス・キリストは誰に投票するのでしょうか?」

私が知っているキリストなら、欲や被害妄想、個人的な権力ではなく、思いやりや寛容さに基づいて行動する候補者を支持するでしょう。すなわち、嘲笑されたり責められたりすることを恐れず、真実を口にする勇気を持つ人であり、不言実行である候補者です。

キリストなら、旧約聖書に出てくるゴリアテのような巨大企業に立ち向かう青年ダビデのような候補者を支持するでしょう。人々よりも利益を優先させ、貧しい人を食いものにして利益を得るような企業ではなく。キリストならきっと、政策に丹念に目を通し、福祉や住宅、教育を犠牲にして、際限なく防衛予算を増額することのない政党を支持するでしょう。

一方で、平和を愛する人、キリストなら、外国で誤って始められた戦争に対し、我々の国の若者を送り続けるような政党は支持しないでしょう。戦争での主な負傷者はいつも決まって女性と子どもなのですから。私は信じています。イエス・キリストは、企業や土建業者による政治献金を受けとらない候補者をもつ政党の元に集まることを。そしてとりわけ、私の知っているイエス・キリストは、地球のことを最優先に考える政党を支持するでしょう。汚染という冒涜を受け、もはや生きものが住めなくなった惑星において、「信仰」はどれほどの意味があるのでしょう?

私は、ボニフェイス婦人に私の通う「教会」にぜひ来ていただきたいと思っています。その「教会」には礼拝堂も壁もありません。白人たちがキリスト教とともにこの地にやってくるずっと前からあったもの。あなたを取り囲んでいて、あなたの呼吸やあなたの存在すべてとつながり合っているもの。私がいう「教会」とはつまり、空気・水・土・火、そして多様性。人間と人間以外の社会を、優しく敬いをもって支え合う、この地球システムのことです。私が従うべき「教義」は、誰かが書いた教典ではなく、私の心の中にあります。そして、私は信条によってではなく、愛によって行動するのです。 敬具

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【翻訳:小山邦子】

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