2014-09-16

夜明けから日暮れまで

201482日分

私たちはこの地でとても穏やかな冬を過ごしました。夜は冷えこみますが、日中は澄みわたる青空がきれいです。ほとんど毎日、登校前か下校途中にビーチに寄ります。パチャとヤニは波打ち際で踊り、このあたりを通るクジラやイルカたちに胸をときめかせ、黄金色の夕焼けにしっとりとした気持ちになって深呼吸するのです。

私たちは居心地よく守られた空間の中に暮らしています。安全で、家族の支えがあって、お腹一杯食べられて、感謝され誰かの役に立っている…、世界のそうでない部分の多くは恐怖と苦しみのうちに崩れ落ちていこうとしているようなのに。
ニュースやフェイスブックのタイムフィードは死と破滅で埋め尽くされ、誰かと誰かの間で非難の応酬が続いています。ここでは人々が通りを闊歩しているのに、メディアが切り取った(ときに強調した)イメージはぞっとするようなものです。傷つき、打ちのめされた人々の姿を見た視聴者は、居心地よい日常の世界に引きこもってしまいます。
気候変動が引き起こす混乱もあります。シベリアがメタンガス放出源になっているというニュースはシェアする気にもなれません。ショックで麻痺してしまいそうです…。

地球上に戦争を引き起こすメカニズムは、すべて化石のような経済モデルと捻じ曲げられた階級思考に端を発しています。そこには未来も、愛情もありません。人間が作り出したものは、人間の手で終わらせることができると信じましょう。

私たちにできること

どうすればいいのか…。生きているだけで、目撃しているというだけでいいのでしょうか。オープンハートでいれば、そして身の回りで日々目にしていることがもっと平和的に、もっと善い形で行えるとわかっているとき、無視したりしないと自分自身に約束すればいいのでしょうか。裏庭で始まっている自殺行為を解決するには…。

今日、Youtubeで見た動画には心を打たれました。動物園の小さな池に落ちたカラスを熊が助けたのです。熊はカラスを食べてしまうのではなく、元気を取り戻して(できることなら)、飛び立つようにとそこに放置しました。

この動画に、私はかつて環境活動家のブルーノ・マンサーがくれた手紙を思い出しました。川で溺れそうになっていた燕を助けた時のことを書いていたのです。(このことは、松谷冬太と一緒に歌にしました。)すべての希望が失われたと思っても、善き魂は手を差し伸べようとするのです。

人間は心の奥底に、全ての命に共通の法則を必要とする者たちを助けようとする本能があるのでしょうか。楽しみ、触れあい、笑い、愛する、全ての命が求めるこうした行いは、私たちが家族のもとへ帰るよう導いてくれる誰かを守り、養い、いたわる気持ちの表れなのでしょうか。私たちの魂は愛に支えられた慈愛の道を選べるほどに強靭でしょうか。

2014-09-11

15 years – the Sloth Club.


15 years – the Sloth Club.
 
'Buttercup' - photo credit: Lucy Cooke
I can never forget the day I met the Sloth. 
Bound and trussed like some living pot roast and left in a concrete laundry tub, awaiting the day it would be dispatched and it’s scrawny flesh become part of a meal for a family living in north-west Ecuador. Leaving it alive was a way of keeping the meat fresh I suppose, its suffering silent, unnoticed and irrelevant. And this is what initially brought my world crashing down, this defining tendency of  human beings - this disconnection to suffering.
I was inconsolable. But somehow, with as much cultural sensitivity as possible, we managed to buy the creature in order to win its freedom. With this beautiful animal laying in my lap, touching its green-tinged, insect-riddled fur, gazing into its permanently smiling face, I started to realize just how amazing Sloths were – gentle, unequivocally unthreatening and so extremely slow. As it determinedly inched it’s way up the tree, little was it to know it had sparked a movement in a country where the ideal character was the antithesis of Sloth.
15 years later and the Sloth Club continues. A family of caring, openhearted and non-judgmental humans of all ages and backgrounds - slightly bewildered that this movement has had such a profound impact – a non-religious, environmental, cultural movement that runs multitudes of ‘campaigns’ – but works primarily on the ‘soul’ level.
For me, watching from afar and continuously inspired by the latest ideas and campaigns - it seems like the most simple, most humble approach is having the deepest impact – simply Love.
It’s so inspiring to see these ideas and sentiments infuse many other ‘movements’, saving them from becoming strange parodies of the dominating, controlling system behind this nightmare of destruction.
And while of course we all still aspire to ‘become Sloth’ – lately I have seen our movement like those Hobbits in the Lord of the Rings classic. Knowing that our quest to protect Life is all but impossible, but never giving up - trying to find humour and humanity in all our activities, however small and seemingly insignificant. As Gandalf says as he describes the barefooted hobbits Bilbo and Frodo undertaking a seemingly impossible mission against impossible odds:
I found it is the small everyday deeds of ordinary folk that keep the darkness at bay. Small acts of kindness and love.”
With a big smile and proudly bare feet (usually!) - it is my honor and joy to be a member of the Sloth Club.

2014-09-03

生きるべきか・・・。

2014年8月14日分

コメディ俳優ロビン・ウィリアムズの自殺のニュースは、皆と同じく私にも(柔らかく静かにですが)感じ入るものがありました。その事件はさざ波のように世界をめぐりそして皆一斉に声をあげました。
「何故なんだ?」

もちろん答えは単純ではありません。しかしその疑問自体、世界中の人々が自らの生きる目的、方向、選択などすべてのことを問い直すきっかけとなったのではないでしょうか。ロビン、命と引換えに世界へこの問いかけを与えてくれたこと・・・感謝します。

何故?という問いに対し私なりに答えを探ってみると、彼を笑いの天才たらしめたのは彼の他者への深い思慮と思いやりであったという矛盾を深く感じ過ぎたから、ということが思い浮かびます。彼を愛する人々に深い悲しみを与えたとはいえ、こういう彼の人生の終わらせ方について私自身は怒りや非難という感情は抱きません。感情的痛みは肉体的痛み同様に激しいもので、希望を失うことが命を奪うことさえあるということは十分に理解できます。

多くの人は、あれほど成功し富を得て皆から愛されている彼のような人が、自ら人生を終わりにさせてしまうことを受け止めることができません。一方で、いわゆる持たざる人が生き抜くために、しばしば強い意志を発揮できるのは何故だろうと考えます。

また、人の業(karma)の深さについて語り、彼は命の転生の中で修行を積んでいくことになるのだと言う人もいます。私は(一般的には)輪廻転生を信じる者ではありますが、一方で他人の魂の行く末を予測する権利は誰にもないとも思っています。それは謎なのです。すべての命あるものはそれぞれ自らの生き方があるのです。私達ができるのは心に忠実にあること、そしてそれぞれの状況でどう感じるか、ということです。他者との共感や思いやりが自分を導くのであり自分の行動の徳が高いかどうかを秤にかけることによって心が動くものではありません。
実際、私はうつ(鬱)を病であるとは思っていません。特に今の混沌とした時代の中ではなおさらです。私達は人類として今、過去の世代が経験したり作り出したことがない情報や概念に取り囲まれています。例えば核兵器、大量絶滅、気候の不安定化、グローバル企業経済。

心を開いている人たちは感じ、時には行動し、時には隠れ、時には祈り、時には愛する人を抱きしめ、あるいは日の出の美しさに自らを癒す・・・。
人生の選択は必ずしもたやすくはありません。