2008-10-14

10/13和訳


世界経済の市場は危機的状態です。しかしいったいそれが何だというのでしょう?私がいる山深いコミュニティからはグァバの木や植林されたばかりの庭が見えます。そんな社会問題はとても遠くの出来事に感じられます。

ここでは、世界経済の混乱よりも地球温暖化の方がはるかに生活に直接的な打撃を及ぼします。気候変動は種まきや収穫を左右する大問題。今後変化していく可能性もありますが、インタグのコミュニティは、都会の消費依存型のコミュニティより、確実に生きるための本能的な知恵が豊かと言えるでしょう。

ここエル・ミラグロでの先週からの仕事といえば、種を植えることでした。一粒の種から百あるいは千もの種になり、それが私たちの食料になるだけでなく、地球に豊かさを取り戻すことを心に描きながら、植えていきます。

私たちのDNAの奥深くに刻まれた、本質的な「生きるための知恵」は、「経済成長神話」に依存してきた結果、失われつつあります。 「限りない成長」という経済至上主義が本質を乗っ取り、自然を迫害してしまった。でも、お金はただの紙切れなんです。アメリカの先住民たちは前から言っていました、「お金は食べられない」ということを。

インターネットをするために訪れたオタバロの町で、私はオバマとマケインのアメリカ大統領選挙演説を見ました。全体的にどちらの候補者も、地球の直面する問題への現実味のある新しい可能性や勇気のある決断を持っていなく、私は落胆してしまいました。

しかしながら、バラク・オバマ氏の一言が私の心に響きました。このように言っていたと思います; 9/11以降ブッシュ政権は単純に民衆にこう言うだけでした。 すべて丸く収まるであろう。すべてのことにおいての責任を政府がとるのであるから、民衆はただひたすら「購入」し続けることでアメリカ経済を強くささえていればよいのだ、と。

問題に直面した国としての建設的な決断を下す絶好の機会が失われたときでした。裕福な国に住む人々は、ようやく自らの人生に意義をもたらすかもしれない犠牲を払う心の準備をととのえたかもしれませんが。このたった一つの望みのようなもの
が経済破綻という結末をもたらしたかもしれない、と私は考えるのです。

私たちのような裕福な国に生まれた人間には、もはやスローで、より小規模でシンプルに生きる事しか選択の余地はないのでしょうね。そんな今こそ自信を持って、私たちは手を取り合い地球の生態系を考慮した、持続可能な、お金にそんなに頼らない幸せな生活を営みましょう。

まず、とても基本的な事として実用レベルでの新しい生活習慣のためのお手本が必要になってきますので皆さんで地球への負担を出来るだけ軽くするためのアイデア、日々出来る事などなど話し合ってください。
SLOHASの時です!

それではエル・ミラグロへもどりましょう

2、3週間前私の大親友のナマケモノ倶楽部の世話人中村隆市さんが日本から新旧の素晴らしい友人たちをつれてエクアドルへAACRI (インタグ有機コーヒー生産者協会)の10周年のお祝いをかねて訪問に来てくれました。わだあやさんがエクアドルの典型的な遅延状況にも関わらず、10日間の滞在期間すべての手配と準備をしてくれました。

パチャとヤニと私は10日間のすべての行程に参加しました。(皆さんの寛大さに感謝!)というのも出来る限りのお手伝いをしたかったし、友人たちとつながり分かち合えるチャンスだったからです。

皆さんが到着する前、ここエル・ミラグロでは新しくコーヒーの育つ森を育成するための区画を広げました。そして果実やコーヒーの苗木をみなさんが植えられるような準備を整えることに励みました。これは持続可能な発展のお手本としてのエル・ミラグロの展望を強く、新たなものにするべき素晴らしい機会となりました。

私自身ここを訪れたすべての人がエル・ミラグロの役割を良き思想の反映と、平和、静穏の場所であり、持続可能な生活習慣のお手本である事に気がついてくれていると感じます。というのも「本格的」なSLOHASは「現代社会」に戻ったときの持続可能な生活習慣への変換をラクにする手助けをしてくれるからです。

ここで生活していてとても楽しいと感じるもののなかに、イケる、イケてないそれぞれありますが、新しい食材や、植物、デザインを試すことに挑戦し続けているというのがあります。なぜそんな事をしているかというと、いつもここで育てている物を使おうと心がけているからなのです。

私は今日キャベツと青パパイヤのサラダを昼食に作りました(もちろん定番の豆と米も一緒)。これがとってもおいしかったんです!子供たちもおかわりに戻ってくるほどでした。こんな新発見をルイスや地元の人たちに教えることが、私の何よりの楽しみです。多分これは地球上どこでもつながりの深い小さなコミュニティでは同じだと思いますが、ほとんどの人が本来自分の行ってきた事をそのままやり続けているだけです。外の人間が入ってくるか自身で外に出て行くかしない限り何かが変わる事はありません。

パチャはどこに行っても敬愛に満ちて楽しそうに動物たちとの新しい接し方を試しています。今日は馬のシャンティが休んで横になっている所に一緒に座って、シャンティに一曲歌ってあげながら優しく頭をなでていました。その光景がどんなに美しかったか、教えていないのに自ら自然にふるまう彼女をどんなに誇りに思ったことでしょう。

ここでは馬たちは他の動物と同じく重い荷物を運んだり、人間に支配され労働を強いられています。それは仕方のない事なのですが、それでもすべての生き物を尊敬と愛情を持って接する方が素晴らしい生き方ではないでしょうか?

生と死はこちらではより身近な事です。日本の皆さんが滞在していた間に、川向いに住むロベルトとノルマ夫妻の幼い娘で、4歳のエメリーに悲しい事件が起きてしまいました。パチャとヤニとよく遊んでいた明るく美しい女の子、駆け回り、笑い、 滝で遊んでいました。2週間ほど前に、彼女はコタカチ近郊でタクシーにひき逃げされ命を奪われてしまいました。残された家族、プラザギテレスのコミュニティ、サンタ・ロサとプカラのコミュニティにとって深い悲しみとなりました。

パチャ、ヤニそして私は3人にとって人生初のお葬式で、家族や他の参列者たちと、かつて彼女が短い人生の中で遊んだ美しい森の風景を背に地中に沈んでいく姿に嘆きました。カトリックのお葬式では、私は、信仰というものは、誰でも知っている事をみなで一緒にすること、例えばみなで同じ歌を歌ったり同じ形式や儀式を行う事を通じて、 ショックに直面したときや死のトラウマ(心的外傷)から人々を精神的に救えるという重要な役わりを持つ事に気がつきました。

人間はこのような宗教的な儀式を必要としているのではないか、人間以上の存在の力を求めているのではないかと私は考えるのです。例えばお香や聖水を用いたりすることなど、宗教的な形を全く持たずにこのような儀式や慣習を行うことがはたしてできるのでしょうか?「私たちの信仰こそが唯一の神である」と主張したりせず、すべての信仰の根底にある真実を受け入れるべきではないでしょうか?このようなことこそ強いコミュニティを作る為の本質であり、人類として今立ち向かわなければならない大きな挑戦なのではないかと私には思えました。

地中深く棺が沈むその前、最後に一度だけ棺が開けられた時、ヤニは棺のそばにいました。彼女の姿がすっかり変わってしまったとヤニは言っていました。私たち人間は体から魂や精神が抜けてしまった事を感じ取ることができます。人は彼女は天使になったんだよとか、姿は見えないけれど時々は遊びにきてくれるよと言ったりします。

私たちは一緒に楽しく過ごした時を心に刻んで前を向かなければなりません。生きる事は過去の出来事よりもほんの少しだけ大切なものなのです。子供たちも道路は危ない場所にもなり得ること、そして死がこんなに近くに存在する事を前より理解してくれるでしょう。

日本とオーストラリアに行くまでの6週間の計画を立てている時点で、私たちのエル・ミラグロでの時間はもうそろそろ終わりに近づいてきました。私たちは今月(10月中)海岸部とアマゾンを旅して、その後エル・ミラグロでの最後の数週間は新しい長期ボランティアのカリンにここでの生活に早くなれ親しんでもらうことと、コミュニティに彼女を紹介する手伝いをしたいと思っています。ボランティアの人たちの為の食物がたくさんこれから育って来年になる頃には収穫できるし、日本の「お風呂」(星や蛍を眺めながらお風呂につかれる日が待ち遠しい!)も作り始めています。どのくらいで帰れるか分かりませんが、健やかで新調されたような気持ちでエル・ミラグロを離れることはとっても気持ちがいいです。

いのちのために
アンニャ・ライト

No comments: