2013-01-18

1/17和訳:自分の足跡をたどる~サラワク再訪

前回の私の投稿が謎めいていると思った読者のみなさんには謝らないといけませんね。「サラワク」って何?、なぜ戻ったの?、なぜもっと早く戻ることができなかったの?、何のことを話しているの?
                  
長い話なので、いつかきちんと書きあげる時間をつくりたいと思いますが、とりあえず簡略版として書いてみることにします。
 
(右端がアンニャ、1991年)

サラワクは、ボルネオ島にあるマレーシアの州で、20年ほど前から、最も急速なペースで伐採が進められています。その結果、森林だけでなく、世界で最後ともいわれる遊牧しながら狩猟採集型の暮らしを続けてきた、心優しく平和的なペナン民族とその文化も、脅かされています。
 
世界的な抗議運動に連なり、私は、最大の市場である日本における熱帯材の浪費をやめさせようというキャンペーンを行い、ペナンの人々のメッセージを世界に広めることによって、彼らを支援しようとしました。

1991年、この問題に焦点を当てて国際的な注意をひくための死に物狂いの緊急行動として、また伐採のための道路を長年平和的に封鎖してきたために逮捕されていた数百人のペナンの人々と連帯して、私たち8人(オーストラリア、英国、米国、ドイツ)は、日本行きの船に木材を積み込むのをやめさせるため、積み込み用のクレーンによじ登りました。

私はギターを持っていき、歌を歌いました。(クレーンの一番上でも、ちっとも怖くありませんでした。)その結果、私たちは「嫌がらせ目的の不法侵入」という理由で、マレーシアで2か月間投獄されました。

当局は私たちを「環境テロリスト」と呼びました。地元の代議士達は私たちを支援してくれました。ペナンの人々は恐らくある程度は力づけられたと感じたでしょう。マレーシアのNGOは、このような性急な外国人の活動家からは距離を置いていました。そして、伐採は以前よりも速いペースで続けられました。。。

刑期の後、私たちは国外追放され、二度と戻ることは認められないと言われました。私は、約1年後にインドネシアから国境を越えて密かに戻りましたが、支援しようとしても効果がないと感じました。

私は、日本、ニュージーランド、オーストラリア、スウェーデン、フィンランド、カナダでも運動しましたが、伐採は続けられ、最もアクセスしやすいエリアが全て伐り出されると、ヤシ油プランテーションへ姿を変えていきました。

最終的に、私は、この経済構造を変えない限り、世界中のどこの森林や人々を本当に保護する方法がないということに気づきました―私たちは、根本的に考え方や暮らし方を変える必要があります― それこそが私が行おうとしていることですし、だからこそ、私がサラワクを訪れてから、20年以上経っているのです。

 
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(20121216)

 
私は、リンバン川の土手に腰をおろして、パチャとヤニがペナン族の子供たちの一団と一緒に川に飛び込むのを見ています。

私たちは、およそ10組ほどの家族の小さな半居留地であるL・ギタにいます。時々、異なる方角から、一人あるいは二人の他のペナンの人々がふらりとやってきます。-そろそろ集まる頃だという噂が出回っていたのでした。
 
私たちは昨日、ラワスから四輪駆動車に乗ってやってきました。祝福を祈る集会の前に用意が整うまで我々は出発せずに待つので、時間は関係なくなってきました。
 
私たちの旅は恵まれていました―聖なるバツラウィ山(友人のブルーノ・マンサーが最後に目撃された場所)をハッキリとみることができるすっきりと晴れた天気でした。この場所を何度も訪れた記憶があふれるように思い出されました、涙も感謝も。

それでも、丸太を積んだトラックは来続けていました。この地域は、その後、コタキナバルからビントゥルへの地下パイプラインを引いた石油会社とも闘っていました。それ以降は、サラワクの広さを考えれば絶望的かもしれませんが。

私たちは多くの吉兆に出会いました: ちょっとした天気雨、川の上のつばめの一群、コワイというサイチョウの鳴き声、S字形の雲、ハチドリ。。。これによって私は、この話をこのブログで共有しようということを思い出したのです。



 
私たちは昨夜、木の床の上に眠りました―ヤニは朝それで文句を言っていましたが、なんとか眠れました。彼らは、子供達やペットの猿や、そのあたりの野生のイノシシや子ネコといてとても楽しんでいました。川は素晴らしい。。。

午後の遅い時間に人に会って、かつての思い出が蘇りました。私がペナン族の名前もらうきっかけとなったホエジカに会ったとき一緒にいた10歳ぐらいの少年に再会し、大人になった彼は今でも私を覚えていてくれたのです。
 
私は昔抗議したときの歌を歌いました、そしてどれだけ多くのものが失われたかという悲しみについて話をする一方、運動を続けていこうという覚悟をどれほどしているか―私たちの子どもたちも戦い続ける必要があるでしょう―についても話し合いました。



【翻訳:平戸実生】

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